Pan Am (1927 〜1991)

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Juan Terry Trippe(English)  ホワン・T・トリップ(日本語)   Charles A. Lindbergh
 

ホワン・T・トリップ

Pan American World Airways 創設者

経歴パンアメリカン航空の創設者であるホワン・T・トリップ氏は航空史上初の太洋横断便開設を実現し、永年にわたり民間航空界の重鎮として活躍した。

1927年にパンナムを創設以来,1968年5月7日に代表取締役会長として退くまでの40有余年を、パンナムの最高責任者として勤め、その後も取締役会に1975年5月13日まで名誉会長として留まった。

パンナムは1927年10月19日フロリダのキーウェストからキューバのハバナまで米国初の定期便を就航させてスタートしたが、当時の会社資産は30万ドル、運航路線はキーウェスト・ハバナ間の90マイルのみであった。この企業をトリップ氏は1968年に会長として退くまでに資産10億ドル、のべ8万マイルに及 ぶ路線網を誇る世界的航空会社に築き上げている。

パンナムは航空輸送業の他に、国際的なチェーンをもつホテル(インターコンティネンタル・ホテル)経営、米軍との契約によるケープ・ケネディ宇宙軌道追跡ステーションの運営、個人、事業用の航空機(ビジネス・ジェット機)マーケティング、米政府の提携する世界各国との航空運送事業、また航空技術援助(Technical Assistance Program)の事業も行っている。

トリップ氏の指揮下でパンナムは史上初の壮挙を数々実現している。なかでも太平洋と大西洋の両太洋横断航空路の開設、米国産ジェット機による定期便の運航開始、ボーイング747ジャンボ機導入のための大量発注などが顕著なこととして特筆される。また航空便の利用を大衆化するために運賃の低廉化に注いだ努力も注目に値する。

航空科学とか運航技術面に示された先駆者としての功績や熟達による名声に加えて、経営者としても先駆者として卓越した手腕を発揮し、パンナムは1941〜1969年にわたり営業利益を計上して株の配当を実施している。特に1967年の収支決算は航空輸送産業界の記録的な好成績として残っている。

航空界はもとより国益、通商、観光産業面での貢献で、世界の国々か賞を授かり、米合衆国の民間人に与えられる最高の「功労賞」を含め、トリップ氏は米市民として最も多い叙勲の栄誉を受けている。

ニュージャージー州のシーブライトで1899年6月27日に先祖に輝かしい軍歴を誇るトリップ家に生まれた。現在でも米海軍の駆逐艦級船舶にはその戦歴での栄誉をたたえて、トリップ号の名称が付けられることになっている。

トリップ氏の航空界との関連は第一次大戦でエール大学を中退して米国海軍航空隊に入隊したときに始まる。戦後は再びエール大学に戻り、大学で航空クラブを設立したりしている。卒業後は、ロングアイランドにチャーター運航を専門にする会社を経営したり、ニュ−ヨークとボストン間を運航していたコロニアル航空の設立者の一人として名前を連ねている。その後、1927年3月にパンアメリカン航空を設立しアメリカで初めての国際線航空会社の生みの親となる。

キーウェストとハバナを結ぶ航空郵便運送権をアメリカ合衆国とキューバの両政府から取得し、フォッカー3発機2機と必要な社員は集めてあったが、会社設立の諸務に手間取り、政府との契約期限の10月28日に第1便を就航させている。

設立された航空会社は1年間で社員118名、5機の保有機を持つまでに成長し、カリブ海域から南へと南米路線の開拓に従事する。その後ラテン・アメリカ地域への路線拡充を基盤に着々と航空輸送企業の形態は整えられた。

その間もトリップ氏の願望は航空企業としての一大飛躍を約束する太平洋横断航空路線の開設に向けられた。1931年に有名なチャールズ・リンドバーグ氏と同夫人がパンナムの要請で大圏コースを飛び、東洋への航空路線調査飛行を行っている。また北極圏の航空気象上の問題調査も同じ頃にウラジミール・ステファンソン氏に依頼された。

このようにして、長距離航空路線の太平洋横断の夢は実現に向かい、航空技術上の基礎調査は完了した。積載許容量とか航空距離などはいずれも当時の常識を 超え想像を絶する規模のものであった。太平洋上の諸島に航空基地が続々と建設され、技術スタッフが配置されて太洋横断の壮挙に必要な地上の施設が準備された。

そして、1935年11月22日にマーチンM-130型飛行艇”チャイナ・クリッパー”がサンフランシスコ湾から世界の注目を集めて飛び立ち、ハワイから太平洋の島々を経由してフィリピンへの空路を制覇し、太平洋横断の野望は達成された。1939年5月20日には、B-314"ヤンキー・クリッパー”飛行艇でロードアイランドのポートワシントンからホルタ、リスボン、マルセイユへの便を就航させ大西洋横断も実現させる。

第二次世界大戦中は米政府との契約により軍需物資の運送などに従事したが、平時に戻って路線網は再編成され、1947年6月17日に、これもトリップ氏の遠大な夢であった世界一周定期路線を開始するに至っている。

1955年には、アメリカ国産ジェット機を45機オーダーし、ジェット時代の開幕を告げるのみならず、アメリカ製ジェット機が今日世界のすみずみまで翼を広げる基盤を作り、その3年後にジェット機を使用した定期便を開始する。

1966年には再びボーイング747ジャンボ機の大規模な発注が他社に先んじて行われ、民間航空史上最高の6億ドルに及ぶ契約で話題となった。

トリップ氏は1928年に合衆国国務長官を務めたこともある故エドワード・セティニウス氏の令妹と結婚、3男1女をもうけている。1980年の9月3日から病気療養中のところ1981年4月3日、ニューヨークにて亡くなった。81歳。遺族にはエリザベス夫人と3男1女、12人の孫がある。

葬儀は4月7日にニューヨークのマジソン街865にある聖ジェームズ・エピスコパル教会で挙行された。

(記事:パン・アメリカン航空広報部 1981年5月1日発行Wings-Japan Vol. 25より転載)

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